日記

見たものメモ

アカデミーと近代フランス絵画

忘れるのが怖いのでメモ

 

第1章 フランス公認美術の結晶化

  アカデミー体制確立の前に、「親方→職人→徒弟」という流れの徒弟制度が存在していた。

徒弟は幼い頃から親方のもとで技術を磨き、親方は実技訓練において持ちうる技術を余すところなく徒弟に教授する。

職人は長年に渡り親方のもとで修行を積んだ徒弟であり、従来の徒弟よりもより深い領域で親方の仕事に携わる。

そして、職人は独立して新たな親方となるために、独力で作品を作り上げる。

 ……という全体的な流れは存在していたが、組合の実技訓練はそれぞれに多様であり、統一の基盤がなかったのであろう。

 

 歴史的な地盤は他の国より劣っていたのもあったのだろうか、(古代ギリシャ、ローマを考えるとやはり1歩後ろという感があります)

イタリアから数多くの画家がフランスに招かれた。美術を庇護する王室の助けもあり、

イタリア人画家はここで多くの作品を作り上げた。押し寄せる異国の波が、組合にとって快いものではなかったはずである。

組合のもとを離れ、イタリア人のコロニーに属するものも現れた。

アカデミー設立計画を取り付けたものは、国王の許可できるだけ制限させようとする「組合の特権を再確認する者たち」だった。

 

アカデミー体制

 上記の者たちによって設立を促されたアカデミーであったが、組合との関係は失わず、むしろ内部のシステムは組合を参考にした者だった。

アカデミーによってカリキュラムは統一されたが、その指導内容は素描のみであった。

実制作はそれぞれが所属する組合によって指導がなされていた。

これは古代ギリシャ/ローマや自然からの模倣という原理に基づいた指導である。

人体素描のコースは重要なものであるとしこれを独占、のちに工房内での指導を禁ずるほどであったらしい。

 アカデミーの会員制度は、組合の徒弟制度をモデルとしている。「生徒→準会員→アカデミー会員」という流れであり、

能力があることを認められた「生徒」は、アカデミー指定の作品を制作し、「準会員」となる。

この作品の出来次第でアカデミー会員の合否が決まるのである。

17世紀のアカデミーは会員の人数制限がなく、誰もが会員になるチャンスがあった。

 フランス革命がアカデミーにもたらした変化は大きく、特権階級として王政とともに廃止され、

変わってフランス学士院が創設された。

 

学士院

 上述のように、アカデミーに代わって設立された組織。

公共からの庇護という面ではアカデミーとあまり変化はなく、むしろ組織内部の在り方に変化があったというべきか。

アカデミーの生徒/準会員/会員という構造は受け入れる門戸の広さと言った要素において能動的であったが、

学士院はそう言った立場ではなく、助言者のような受動的立場であった。

そのため、学士院は教育制度に熱中していたと言える。

1816年にブルボン王朝が復活し、学士院はその名に「アカデミー」が冠するものとなった。

 

美術学校

 フランスの美術に関する機関は「アカデミー(学士院)」と「美術学校」の2本からなっていると言える。

学士院美術部門は名誉的機能を、美術学校は実質的な教育的機能を備えていた。

機能は分離しているが、同じ学士院の敷地にあり、対立をしていたというわけではない。

 行われていたカリキュラムは人体モデルや石工の素描に関する批評や解剖学、遠近法などについての講義である。

定期的にコンクールが行われていたが、風景画のためのローマ賞と構図スケッチのコンクールも新たに行われるようになった。

学士院がアカデミーとなったことにより、美術学校も組織替えが行われたが、大きな変化はなかった。

19世紀の公認美術

 「古典主義」と「ロマン主義」は19世紀の大きな美術対立である。

古典主義は言うまでもなくアカデミックな絵画、技法に根ざした概念である。

ロマン主義はアカデミーの凝り固まった教育や革命がもたらした自由意志の思想が根底となっていると言える。

ロマン主義と共に風景画の評価にも変化が現れた。

これまで低俗なものとみなされていたが、ロマン的思想を表現する媒体として優れていたためである。

 ロマン派の絵画は、アカデミックなものに慣れ親しんだ批評家から見ると粗略なものであり、

スケッチと揶揄するように、躍動感や新鮮さの表現のためにその完成度を犠牲にしているように思われた。

この時において古典主義者たちは、ロマン主義者たちの霊感源である構図・純粋な色彩という点を評価はしているが、

それ単体として完成作と見ることはできなかったと言える。

 この2つが対立しているなか、「中庸様式」と形容すべき新たな様式が生まれた。

古典派、ロマン派どちらに傾倒するわけでもないこの様式は、7月王政期の大衆によって支持された。

例えばドラローシュはロマン主義的な主題とアカデミックな素描様式を取り入れている。

 王政はアカデミーといった古典派だけでなく、独立派にも絵画の模写といった事業を依頼し、美術産業を包括的に運営した。

他にも、資産を蓄えた大衆が美術そのものに触れる機会が増え、美術に関する諸知識を蓄え始めた。

どちらかを選択せず、包括的に庇護した国家とこうした世論の存在が、

どちらの派閥にも属さない中庸様式が人気を博した要因でもあると言える。

「公認」と「アカデミック」の相違

 フランスにおいて公認とされた美術は「中庸」なものであり、アカデミックな絵画や技法などは

次第に堅苦しいものとされ、美術学校に注目が集まった。

そもそもの「アカデミックさ」とは、美術学校で学ぶ人体モデルや石工の素描に関する批評や解剖学、遠近法

が根底にあり、この基礎に関しては上記の対立関係においても共通概念であった。

古典派と独立派においての差異は仕上げの過程においてである。

公認される芸術が必ずしもアカデミックでないことは上述の通りであるが、アカデミーによってもたらされた教育は、

ほとんど全ての画家において基礎となり、関係性の深いものとなっている。